Twitterは今後どこへ向かって行くのか

一度も会話がなくてもみんなFriends

私がTwitterで友人登録している人は、国外問わず実際には顔も本名も知らない人物だ。ネット仲間やメル友というのはネットコミュニケーションじゃ何も珍しくないことだが、さすがにまったく会話を交わさずにマイミクになる人はいないだろう。しかし、Twitterではメッセージのひとつも交わさずに、強制的にFriend登録をすることができる。お互いになんの意思疎通がなくても、いつの間にかお友達である。友達登録と言うより、ブックマークに近い文化がそこにはあるように思える。

そこで交わされているのはコミュニケーション?

まったく知らない人でも、他人が毎日どんな行動をしているのか観察するのはそれはそれで面白いものだが、「〜食べた」「〜つかれた」のような特に意味を持たない文字の羅列が延々と繰り返されているのを見ていると、いささか飽きを感じることもある。(Friendの一人にドラスティックな毎日を送っている人がいれば別かもしれないが・・・もしくはまったく文化の違う国の人が混在しているとか)
また、投稿する内容が内容だけに、投稿されたメッセージの前後に関連性を見出すことも難しい。たまに会話が発生しているときもあるようだが、会話している相手が自分のFriendではなかった場合には「自分のFriendが誰かと話しているらしい」という事実のみがわかるのであって、少し奇妙な錯覚におちいることもある。
リアルの友達だけで繋がればもの楽しいかと言えば、そうとも言い切れない問題もある。例えば、Twitter上でリアル友達が繋がると、そこで会話が発生してしまう可能性が高い。そうなった場合、関係ない会話を延々聞かされるほうはもちろん、聞かされるほうも居心地の悪さを感じるはずだ。(むしろいっそのことTwitterを「レス禁止」してしまえばよいのかも)
そう、Twitterは会話や議論には向かないツールなのである。そこでできることは、一方的に自分の存在をアピールして周りに知らせること、そして他人が今何をし、何を思っているのかを知るのみだ。そこに満足出来ない人はこのツールを使うのは難しいだろう。それが果てしてコミュニケーションと言えるのかどうかは人によって意見が分かれるだろうが、広義の意味ではコミュニケーションの範疇には入っている。(テレビ視聴だってコミュニケーションと言われてるし)
これは、心理学でも明らかにされているように、直接会話がなくても同じオフィスで毎日お互い顔を合わすだけで好感が生まれるという「単純接触効果」からも説明できる。つまり、人間は「相手がそこにいる」と認識するだけで、すでにコミュニケーションが生まれているのだ。

いずれ大量のFriendを集めるアルファトゥイッターが現れる

先ほど「Twitter内のFriend登録はブックマークに似ている」と書いたが、もしこれが正しければ必ず大量のaddを集めるアルファトゥイッターとも言うべき人物が現れ始めるはずだ。アルファトゥイッターは、常にエキサイティングな日常を逐次アップロードし、見ている人を飽きさせないだろう。(たとえそれが作り話だとしても)
そして日本においてユーザーが増え続けるとすれば、比率として1割が一時間おきくらいにアップする層、もう1割がたまにアップする層、そして残る8割はいわゆるROM専に収束していくのではないだろうか。

宣言ツールや吐き出しツールに使われるかも

中にはTwitterを一方的宣言ツールとして利用する人も現れ始めるだろう。「返信を求めない言いっぱなしツール」という特徴を生かし、知り合いに言うまでもないけど、誰かには伝えたい、叫びたい、といった需要を吸収するツールに成長するかもしれない。別エントリーで紹介した「モバトゥイッター」に搭載されている「☆ったー!」という機能は、まさにそういったニーズを満たす役割を持っている。